彼は46年前の7月4日に生まれました。
知り合ったのは小学校時代。
それから時々クラスが同じになりながら小、中、高と同じ学校に通っていました。 高校時代に部活に打ち込みすぎてか浪人し、通う予備校まで一緒でした。 さらに、予備校が合わなかったのか、互いに2浪し、二人で地元の図書館に通い、毎日勉強していました。
朝図書館に集合し、勉強に打ち込み、近くの蕎麦屋や定食屋で昼食をとり、また勉強。 そして、時には息抜きのため夜中に伊豆方面や富士山方面にドライブに行き、露天風呂に入ったり流れ星を見ながら将来の夢を語り合いました。 また、一緒に覚えたてのギターを弾き語り、内に秘めた熱い思いを吐き出したりしていました。
山登りが得意だった彼に山登りの楽しさを教えてもらったのもこの時期です。旅行好きの彼が私のために旅行プランを練ってくれ、一緒に青春18きっぷを使い日本海まで行ったこともありました。
それはとても楽しく充実した日々でした。
そして、二人とも大学に合格し、晴れて大学生に。
4月から別々の大学に通うようになり、入学当初の忙しさからしばらく会うことがありませんでしたが、少し落ち着いた5月連休明けに、「一緒に大井川、天竜川にドライブに行こう」という約束をしました。
しかし、これから楽しい大学生活が待っているという矢先のその年の6月に彼は帰らぬ人になりました。
今でもその日のことはよく覚えています。
外出していた私は彼がちょうど亡くなったくらいの時間になぜだかわかりませんが無性に連絡を取りたくなり、彼の家に電話をしましたが誰も出ません。自分の自宅に電話しても誰も電話に出ません。
そのこと自体は、そんなに珍しいことではないのですが、その日はなぜだかとても気になり、家に飛んで帰りました。
嫌な予感がしながら待っていると家の電話が鳴りました。
それは一足早く一報を聞き、現地に向かっていた両親からの電話であり、彼が川で溺れたという内容でした。
それを聞いた瞬間に頭が真っ白になると同時に言いようのない不安感が私を襲いました。
しばらくすると両親が家に戻り、一緒に警察に行きました。
警察に行くと壁に彼の名前が死亡者として張り出されているのが目に飛び込んできました。
何かの間違いであってほしいという思いはいともたやすく打ち砕かれました。
そして、目の前が真っ黒になりました。
地下の霊安室らしき場所に移動すると彼のお母さんが泣いていました。
私は彼のお母さんと抱き合いながら一緒に泣きました。
そして、一緒に棺桶に入った彼の顔を見て、亡くなったのは間違いなく彼だと思い知らされ、心が握りつぶされるような痛みを感じました。
それからの1週間、私は家にこもり、泣き続けました。
彼は共に楽しい時間を過ごした友であり、共に苦しい時間を将来の夢を語り合いながら乗り越えた戦友であり、複雑な家庭環境にいた私の愚痴を包み込むように聞いてくれる親友であり、大きな心の支えでした。
それから数年、支えを失った私の心は安定を失い、自分らしさを失っていた気がします。
しかし、次第に彼が私に残してくれたことに気づいていったのです。
それは、「人は必ずいつかは死ぬということ」。
それも突然、しかもあっけなく。
そのことをとてつもなくリアルに感じさせてくれたことで「今を精一杯生きること」の大切さを強烈に私に心に刻んでくれました。 それは「自分が大切だと思う人に今できることを精一杯すること」でもあり、「思ったことは今すぐにやってみること」でもあります。
次の瞬間、自分が死んでしまっても、大切な人が亡くなってしまっても後悔のないくらい今の一瞬一瞬を精一杯に生きること、相手にできる限りことをすることの大切さを胸に刻み込んでくれました。
「家族の素晴らしさ」も教えてくれました。
実は当時の私の家族は、お世辞にも仲がいいとは言えませんでした。
両親は毎日のように喧嘩をしていたので、両親ともにイライラしていることが多く、よくそのとばっちりを受けました。 そんな両親を見て姉は両親に反発。学校生活も上手くいっていなかったためかどことなく無関心。 私はそんな家族環境の中で育ち、そんな両親の子供なので自分もそんな大人になり、そんな家族を作ってしまうのかと家族に対する大きな不安をもっていました。
しかし、彼の家族は全く違いました。
皆が仲が良く、いつも笑顔が絶えない家族でした。 テレビゲームは良くないと言われていた時代でしたが彼のお父さんは彼と一緒にテレビゲームをするほど仲がよい親子でした。彼は旅行好きで、良く一人で旅行に行っていましたが、旅行から帰ると何時間も彼のお土産話しを家族みんなで聞いているような家族でした。
そんな彼と彼の家族を見ていると「無償の愛」を感じました。 そして、その「無償の愛」を前提とし家族同士「全幅の信頼」をお互いに持っていることを感じました。
それは言うなれば家族の誰か一人が世界中の人に悪人呼ばわりされても、残りの家族だけは信じ続けるような硬い信頼関係です。
そんな彼の家族と触れ合ううちに私の中にあるネガティブな家族感を徐々に払拭され、同時に前向きな家族感を築かれていきました。
そう、今私が幸せな家族を持っていられるのは彼と彼の家族との出会いのおかげと言っても過言ではないのです。
「目標を持って生きることの大切さ」も学びました。
彼は10代で非常に明確な将来の目標を持っていました。
そして、今の彼の行動とその目標が一直線につながるような生き方をしていました。
明確な目標など持っていなかった私にとってはそういう彼はとても眩しく、とても羨ましかったをよく覚えています。
そんな彼と将来について話すようになってから私は自分の目標を強く意識しながら生きるようになりました。 自分は何がしたいのか、何が好きなのか、何が向いているのか、自分が今していることと将来の目標が繋がっているか、繋がっていないと感じれば行動を修正していくことを繰り返してきました。
いつでも将来の目標を持ち、その目標に向かって今できることを精一杯することの大切さを彼から学んだのです。
そして、何より「思いやりを持つこと」を学びました。
彼はとても友人の多い人でした。
なぜだか憎めないキャラクターで、不良全盛期だった中学時代でも不良グループから面白い奴だと思われているような人でした。
彼はとにかく人を楽しませるのが好きな人でした。 相手のことを思い、相手の身になって、今の言動を考える人でした。 それは自分のことより相手のことを思って行動する自己犠牲を伴うものでした。
実はかれが亡くなった理由も川で溺れている彼の友人を助けようとして彼が溺れて亡くなったのです。
それに対して私は短気で自分よがりで攻撃的な人でした。
そんな私からすると彼は宇宙人に匹敵するくらい「どうしたらそうできるの?」というような人でした。
それになんでこんな私と仲良くしてくれるんだろうと疑問でもありました。
彼のお葬式にはそんな彼を偲び、信じられないくらい多くの友人が集まりました。
私は彼とは真逆な性格を持って生まれてきているため彼のようになれるとは今でも思っていませんが、一生をかけて彼のような「自分を犠牲にしてまでも人を思いやれる人」に少しでも近づきたいと思い、かれを失ってから日々自分を見つめ直す努力をしています。
また、最近になって思うことは、「大切な人を失うこと」はとても辛いことだけど、その大切な人は実はたくさんのことを残してくれているということ。
それは私の親友が多くことを私に残してくれたように。
そして、それが今を生きる残された人にとっても大きな力になるということを。
彼を失ってから26年が経ちました。
そんな彼の46回目の誕生日に彼からもらったたくさんの楽しい思い出や彼から学んだ多くのことを改めて感じながらこれを書いています。
彼が亡くなった後に彼のおかあさんから「宏太はすごい奴だよ」と彼がよく言っていると聞かされました。
私のどこをすごいと思ってくれていたのか今はもう聞けませんが、今でもその言葉が私の大きな支えになっています。
今日7月4日は彼の誕生日。
私はこれからも彼と一緒に彼から受け取った大切なギフトを心に秘めて生きていきたいと思います。
そして、私が彼から学んだことが少しでも皆さんの幸せにつながり、大切な人を亡くした人にとって前を向いて一歩進む力になればとてもうれしいです。
おわり
2015年7月4日
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